めめめのくらげ感想

もう3日前になりますが、5/14にららぽーと横浜スクリーン10で「めめめのくらげ」を見てきました。

 平日水曜日19:25からのレイトショーに来た客は、藝ぽちの観察眼によれば50代男1、30代男5女6、20代男4女2で、20人ほどの入り。成る程、打ち切りもやむなしといったところ(別に業界人じゃないから適当)。この日は1000円で見れるお得な日だったのだが・・・。普段は映画の客の入りなど気にしないのだが、村上隆が残そうとしているだろうデータの一助になるかと思って気にしてみた。ならんか。

 あとTwitter村上隆椹木野衣東浩紀らの「めめめのくらげ」ツイートが流れているのは知っていたが、意識して読んでいない(5/17現時点でまだ読んでないので週末はTL遡るか、まとめを探さなければならない(´・_・`)めんどくせえ)。ネタバレ嫌だとかでは無く、村上隆の作品を生で見るのは初めてなので、「自分はこの作品をどう見るか」を知りたかった為です。他者の言説は藝ぽちには強過ぎる。

 で、感想。

良かったです。子供時代の自分にも(無理)、自分の子供にも(いない)見せたい映画。というか、子供の時見たら印象に残り続ける映画になるだろうなぁと。

ストーリーは、導入すぐに黒ずくめの組織を登場させ、そういう世界観ですよ。ツッコミは野暮ですよ。という了解のもと(もっとも、ヒーロー戦隊ものを知っている大多数の私たち大人にも、それはすんなり受け入れられる)、子供向け夏休み映画のような展開で進む。

印象に残ったのは、

1.「最後に子供と大人がわかりあう」みたいな描写が無く、あくまで子供の世界の出来事として描かれていること。

大人を非常に駄目なものとして存在させ、そのことを回収しなかったのは、(本編の最後に「めめめのくらげ2」が予告されているのだが) 2で回収するからなのか、それとも駄目なものとして描ききるのかはわかりませんです。

2.事件解決(オーバル退治)と話の締め(フレンドの復活)を、チートともいうべき専門知識を持つギークの同級生が実質行っていること。

だが、専門知識はあくまで学びの賜物なわけで、よくよく考えればチート的要素は主人公にこそある。主人公はデバイスも持たず、知識も無いのにフレンドを持てたんです。フレンドがいなかったら主人公はどうなっていたのか?ギークな同級生はフレンドがいなかったとしても、「友達だろ」と叫んでくれる友達がいたわけで。

以上、こんなとこでしょうか。

 次は美術です。監督がアーティストですから当然気になります。が、これは純粋さを失った藝ぽちの琴線には触れなかったです。物凄く繊細でしたけどね。

ただ、印象的だったのが、他のフレンドがCGで表現されている中、ヒロインのフレンド(ルクソー)だけは着ぐるみを使っていてリアルな物質で表現していたこと。映画の最後、主人公とヒロインの手をとって道を歩くルクソーの後ろ姿は、子供の手をとり家路につくお爺ちゃんとかぶるわけだが、そこにリアルな物質で表現した理由があるんでは?とか。まあ、あの毛むくじゃらをCGで表現するのが困難だっただけかもしれませんが。

 まとめ。

この作品では、子供が構築した子供世界に、(駄目な)大人が介入することを拒否し続ける。だが子供世界がいつかは終わるのは自明なため、逆説的に(駄目でない)大人が必要だというメッセージが込められているのではないか。

 あ、あれ?これ2の展開見えてきた気が。

「藝ぽちの勝手に予想めめめのくらげ2ストーリー」

再び黒ずくめの組織と対峙するも疲弊していく子供達。(しかし駄目な大人しかいない為に、子供世界は大人の介入も拒否し続けなければいけない。)そしてついに子供達は敗れてしまう。(子供世界に介入出来る駄目でない大人がいなかった為に。)おわり。

 ああ、限界かな。「自分はこの作品をどう見るか」はこんなとこで終わり。そう藝ぽちは駄目な大人であるわけ。

とりあえず労働終わって家帰ったら、買った映画パンフレットとTL読みます。

(ゲンロンカフェでやる村上隆x東浩紀の対談行きたいなぁ、20:00からだったらなぁー。)